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    若者はなぜうまく働けないのか?

    CIRCUSという雑誌の取材がある。
    お題は「どうして若者はうまく働くことができないのか?」
    一方に引きこもったまま労働しない若者がおり、一方に過労で倒れそうな若者がいる。
    いずれも「うまく働いている」わけではない。
    どうしてなのか。
    たしかに「どうしてなんでしょう」と訊きたくなる気もわかる。
    お答えしよう。
    これは複数のファクターの総合的な効果であるから、単一の原因を探してもダメである。
    第一は働く個人の側の問題である。
    『下流志向』で分析したように、労働を経済合理性の枠内でとらえると、労働者は自分の労働の成果に対して、「等価の」報酬が、「遅滞なく」、「固有名宛て」に給付されることを望む。
    学生たちが知っている「work」の経験はさしあたり受験勉強と就活だけであるが、それはまさに、努力に対する報酬(成績や合否採否)が(成績発表、内定通知の日に)「遅滞なく」、努力にふさわしい評価として、固有名宛てに届けられるシステムである。
    前にも書いたとおり、「受験=就活のモチベーション」と「労働のモチベーション」は別種のものである。
    前者は個人のためのものであり、後者は集団のためのものである。
    このまったく違う活動を同一のモチベーションで行おうとするところに齟齬が生じるのである。
    だから、1年半ほど汗水たらして就活をしたあげくに、入社した会社で「労働するモチベーション」を維持できずに三月で辞めてしまう・・・ということが起きる。
    労働は本質的に集団の営みであり、努力の成果が正確に個人宛に報酬として戻されるということは起こらない。
    報酬はつねに集団によって共有される。
    個人的努力にたいして個人的報酬は戻されないというのが労働するということである。
    個人的努力は集団を構成するほかの人々が利益を得るというかたちで報われる。
    だから、労働集団をともにするひとの笑顔を見て「わがことのように喜ぶ」というマインドセットができない人間には労働ができない。
    これは子どものころから家庭内で労働することになじんできている人には別にむずかしいことではない。
    みんなで働き、その成果はみんなでシェアする。働きのないメンバーでも、集団に属している限りはきちんとケアしてもらえる。
    働くというのは「そういうこと」である。
    だが、社会活動としては消費しか経験がなく、「努力」ということについては受験と就活しか経験がない若い人にはこの理路がうまく理解できない。
    どうして自分の努力の成果を他人と分かち合わなくてはいけないのか?
    だって、それオレのもんでしょ?
    違うのだよ。
    『スイスのロビンソン』という、今ではほとんど読まれることのない児童文学作品がある。
    これはスイス人一家が無人島に漂着して、そこでロビンソン・クルーソーのような暮らしをするという物語である。
    その冒頭近く、漂着したあと、海岸でみんなで魚介類を集めてブイヤベースを作るという場面がある。
    スープができたはいいが、皿もスプーンも人数分ないから、みんなでわずかな食器を使い回ししている。すると、子どもの一人がおおぶりの貝殻をとりだして、それでずるずるスープを啜り始めた。
    なかなか目端の利く子どもである。
    それを見た父親が子どもに問いかける。
    「お前は貝殻を使うとスープが効率よく食べられるということに気づいたのだね?」
    子どもは誇らしげに「そうです」と答える。
    すると父親は厳しい顔をしてこう言う。
    「では、なぜお前は貝殻を家族の人数分拾い集めようとせずに、自分の分だけ拾ってきたのだ。お前にはスープを食べる資格がない」
    私は9歳くらいのときにこのエピソードを読んで「がーん」としたことを覚えている。
    そうか~、集団で生きるときには、「そういうルール」に従わないとご飯が食べられないんだ・・・
    これはメモしとかなくちゃね、と私は思ったのである。